映画「性の曼荼羅」と「チェルノブイリ・ハート」
最近、2本のビデオ映画を観る機会があった。いずれも観る価値のある作品だと思うので紹介したい。
一年の計は元旦にあり
元旦に初日の出を見てきたので、太陽に関する話題をいくつか。
人類は薄氷の上にいる
先日ニュースを見た。アメリカ政府が、イランに経済制裁を行うことを決めたそうだ。
理由は、度重なる警告にもかかわらず、イラン政府が核開発を中止しないからだという。ニュースキャスターがやや緊張した面持ちで原稿を読み上げていた。
理由は、度重なる警告にもかかわらず、イラン政府が核開発を中止しないからだという。ニュースキャスターがやや緊張した面持ちで原稿を読み上げていた。
久しぶりにドキドキした~
つい先日のことだ。
お客さんと打ち合わせをしていた。
夏から取り掛かっていた案件であったが、ようやく一段落して、お客さんもホッとした様子だったので、私は「にわかに信じがたい話ですが、今まで聞いた中で一番すごいネタなので、少ししゃべっていいですか?」と切り出した。
お客さんと打ち合わせをしていた。
夏から取り掛かっていた案件であったが、ようやく一段落して、お客さんもホッとした様子だったので、私は「にわかに信じがたい話ですが、今まで聞いた中で一番すごいネタなので、少ししゃべっていいですか?」と切り出した。
小さな親切
今朝、札幌は大雪が降った。
真冬の冷え込みで、コートとマフラーを装着して家を出た。
吐く息は白く、シンシンと雪が降り続く中、
地下鉄駅に向かうバスに乗った。
到着して下車しようとしたとき
後ろから「誰か手袋落としませんでしたか~?」
と大きな声がした。
振り向くと、おばちゃんが、私の手袋を片方持っていた。
かばんの中をのぞくと、片方しかない。
私はおばちゃんにお礼を言って手袋の片方を受け取った。
数年前に嫁さんから誕生日にもらった革の手袋で
大事に使っている物だった。
もし、落としたことに気づかないで、下車して
なくしていたらかなりショックだったに違いない。
でもおばちゃんの親切のおかげで助かった。
今度自分ももし誰かの落とし物を発見したら
大きな声で周りに教えてあげようと思った。
真冬の冷え込みで、コートとマフラーを装着して家を出た。
吐く息は白く、シンシンと雪が降り続く中、
地下鉄駅に向かうバスに乗った。
到着して下車しようとしたとき
後ろから「誰か手袋落としませんでしたか~?」
と大きな声がした。
振り向くと、おばちゃんが、私の手袋を片方持っていた。
かばんの中をのぞくと、片方しかない。
私はおばちゃんにお礼を言って手袋の片方を受け取った。
数年前に嫁さんから誕生日にもらった革の手袋で
大事に使っている物だった。
もし、落としたことに気づかないで、下車して
なくしていたらかなりショックだったに違いない。
でもおばちゃんの親切のおかげで助かった。
今度自分ももし誰かの落とし物を発見したら
大きな声で周りに教えてあげようと思った。
真我
肉体が病で苦しんでいるとき
痛みや苦痛にあえいでいるとき
そのようなとき、どうしても自分自身を肉体だと思ってしまう
「私の肉体が苦しんでいる」ではなく、「私は苦しい」となってしまう
感情が怒りや憎しみで煮えくりかえっているとき
恐怖で硬直し、ブルってしまうとき
渇くような欲望の炎に苛まれているとき
心配や不安が心の中を渦巻いているとき
感情体が暴風雨にように荒れ狂っているとき
そのようなとき、どうしても自分自身を感情だと思ってしまう
「私の感情体が怒っている」ではなく、「私は怒っている」となってしまう
マインドが思いや考えに取り憑かれているとき
あれやこれやと空想や妄想を思いめぐらしているとき
次から次へと想念形態が湧いては消え、湧いては消えを繰り返しているとき
大切にする余りある価値観を後生大事に抱え込んで、聞く耳を持たないとき
そのようなとき、どうしても私自身をマインドだと思ってしまう
価値観や思想、意見を自分自身だと思いなし、これを否定されることは即ち、自分自身を否定されることと同じだと感じてしまう
このような状態で、本当の自分を知覚することはできない
本当の私とは誰か
私が誰なのか、知りたいとは思わないかい?
知りたいのなら、欲望の空しさと不安やおそれの馬鹿馬鹿しさをまず知って
穏やかで平和な生活の味わい深さを知るといい
肉体が健康で、病や不調がどこにもないとき
私たちは、肉体を意識することはほとんどない
食事やトイレ、スポーツのときくらいだ
感情が穏やかで、欲望や野望に渇いていないとき
憎しみ、怒り、妬みから解放されているとき
心配や不安、おそれがなく、安心しているとき
私たちは、感情を意識することはほとんどない
感情は、無意識の領域に沈み込む
執着するに値する人や娯楽、楽しみが何もないとき
聖なる無関心がじわりじわりと浸透してくるとき
考えることや思うことが面倒臭くなってくるとき
静かな沈黙が馴染み深いものとなってくるとき
私たちは、マインドの動き・運動が気にならなくなってくる
私のパーソナリティ、つまり現象の世界に生きる私が
すなわち、諸体、つまり3体が
穏やかになり、静かになるにつれ
内なる光が脳の中心から輝きだしてくる
それは目に見えない光だが、私の乏しい語彙では光という表現しか思いつかない
眠気が幻想や気のせいではないのと同じように
その光の輝きは幻想や気のせいではないように思われる
これが古から言い伝えられるところの「魂の光」「真我」なのだろうか……
まだはっきりとは分からないが
ゆっくりと
非常にゆっくりと
この光の光量は増してゆく
この光の輝きは、白熱電球から放射状に放たれる光のようだが
私の肉体が今この瞬間に、蒸発し、消滅したとしても
変わらずに輝きつづけているだろうか
この問いに対する答えを自ら発見したとき
リアルだと思っていた私の住むこの世界の実在性がゆらぐに違いない
痛みや苦痛にあえいでいるとき
そのようなとき、どうしても自分自身を肉体だと思ってしまう
「私の肉体が苦しんでいる」ではなく、「私は苦しい」となってしまう
感情が怒りや憎しみで煮えくりかえっているとき
恐怖で硬直し、ブルってしまうとき
渇くような欲望の炎に苛まれているとき
心配や不安が心の中を渦巻いているとき
感情体が暴風雨にように荒れ狂っているとき
そのようなとき、どうしても自分自身を感情だと思ってしまう
「私の感情体が怒っている」ではなく、「私は怒っている」となってしまう
マインドが思いや考えに取り憑かれているとき
あれやこれやと空想や妄想を思いめぐらしているとき
次から次へと想念形態が湧いては消え、湧いては消えを繰り返しているとき
大切にする余りある価値観を後生大事に抱え込んで、聞く耳を持たないとき
そのようなとき、どうしても私自身をマインドだと思ってしまう
価値観や思想、意見を自分自身だと思いなし、これを否定されることは即ち、自分自身を否定されることと同じだと感じてしまう
このような状態で、本当の自分を知覚することはできない
本当の私とは誰か
私が誰なのか、知りたいとは思わないかい?
知りたいのなら、欲望の空しさと不安やおそれの馬鹿馬鹿しさをまず知って
穏やかで平和な生活の味わい深さを知るといい
肉体が健康で、病や不調がどこにもないとき
私たちは、肉体を意識することはほとんどない
食事やトイレ、スポーツのときくらいだ
感情が穏やかで、欲望や野望に渇いていないとき
憎しみ、怒り、妬みから解放されているとき
心配や不安、おそれがなく、安心しているとき
私たちは、感情を意識することはほとんどない
感情は、無意識の領域に沈み込む
執着するに値する人や娯楽、楽しみが何もないとき
聖なる無関心がじわりじわりと浸透してくるとき
考えることや思うことが面倒臭くなってくるとき
静かな沈黙が馴染み深いものとなってくるとき
私たちは、マインドの動き・運動が気にならなくなってくる
私のパーソナリティ、つまり現象の世界に生きる私が
すなわち、諸体、つまり3体が
穏やかになり、静かになるにつれ
内なる光が脳の中心から輝きだしてくる
それは目に見えない光だが、私の乏しい語彙では光という表現しか思いつかない
眠気が幻想や気のせいではないのと同じように
その光の輝きは幻想や気のせいではないように思われる
これが古から言い伝えられるところの「魂の光」「真我」なのだろうか……
まだはっきりとは分からないが
ゆっくりと
非常にゆっくりと
この光の光量は増してゆく
この光の輝きは、白熱電球から放射状に放たれる光のようだが
私の肉体が今この瞬間に、蒸発し、消滅したとしても
変わらずに輝きつづけているだろうか
この問いに対する答えを自ら発見したとき
リアルだと思っていた私の住むこの世界の実在性がゆらぐに違いない